2017.03.02 ネットのお墓はアリ?ナシ? お坊さんが仏教の教えに照らして考えてみた
お墓をインターネットに置くサービスが増えています。仏教の教義的には、ネットのお墓はアリなのでしょうか。そもそものお墓の役割とは? 京都のお寺の副住職に考えてもらいました。
浄土宗・月仲山称名寺 副住職
稲田 瑞規(いなだ みずき)
1992年京都府久御山町(くみやまちょう)生まれ。2015年12月に伝宗伝戒道場を満行(まんぎょう)し、僧侶として歩みはじめる。地域の人々とのふれあいの中に「えも言われぬエモさ」を感じはじめ、現在お寺と地元をつなぐメディアを模索中。
生活を劇的に変化させてきたインターネットだが、近頃はお墓もネット化していることはご存知だろうか。いわゆる「ネット墓」だ。ネット墓とは、インターネット上に自分のお墓のページをつくることができるサービスである。日本ではまだまだ知名度は低いが、海外ではすでによく知られたサービスとなっているのだそうだ。
しかし、このネット墓については「こんなのアリなの?」「いくらなんでもやりすぎじゃないの?」という声が聞こえてきそうだ。今回はひとりの僧侶として、ネット墓がアリなのかナシなのか考えてみた。
仏教の教えには「お墓に対する取り決めがない」
ネット墓は仏教的にどのように捉えられるのだろうか?「教えてお釈迦(しゃか)様—!」と勢いよくお経をめくっても、その答えはどこにも書いていなかった。
そもそも、仏教のお経には「お墓とは何か」という定義なんてものが存在しないのだ。それは日本の仏教の各宗派においてもまた然(しか)り。お墓に戒名を刻むなどといった風習は定着しているが、それが宗派ごとに明確に定義されているわけでもない。さらに付け加えておくと、お釈迦様がお墓を容認していたかどうかということも実は定かではなく、議論のあるところなのだ。
しかし、日本にはお墓の民俗的な風習のなかに、日本の仏教的な文化が共存しているのは疑いようもない事実だ。今回はその共存する文化のことを「墓文化」とよぶことにする。
これまでの日本のお墓と比べてみると?
仏教の教えからは、ネット墓がアリなのかナシなのか、答えは得られない。そこで、次はこれまでの日本の墓文化と比べてみることにする。というのも、お墓というのは、時代や社会の変化とともにその形を変遷してきたからだ。たとえば、現在のスタンダードとなっている角柱型の石塔(いしどう)も昔からこの形のままというわけではなく、あくまで近現代以降に流行した一つの形にすぎないと言えるのである。
これまでの日本の墓とネット墓を比べるにあたって、今世の中に存在するネット墓を2種類に分けてみた。一つは「併存型ネット墓」と、もう一つは「単独型ネット墓」である。
併存型ネット墓とは、実際に実物のお墓を保有している人が、いつでもどこでもお参りできるように、実物の墓をネット上にグラフィック表示したものである。たとえば、日本にお墓を保有しているが、海外に移住していて墓参りできないといった人の利用を想定しているそうだ。
「遺骨が納まっている墓とは違う、ネット上のお墓にお参りするの?」と困惑するかもしれないが、日本の墓文化史上、本来の墓とは別に、お参りするための対象を設ける風習がなかったわけでない。いわゆる両墓制と言われるものだ。
両墓制とはまだ日本が土葬だったころの文化で、参る用のお墓と遺体を埋める用のお墓とを分離していたというもの。すなわち、日本の歴史上、参る対象としては遺骨が目の前に存在するということは問題としていない時代もあった。その意味では、併存型ネット墓は現代版の参り墓とも言え、日本の墓文化的にはあまり違和感のないスタイルだと言えるのかもしれない。
一方で、単独型ネット墓とは、実物のお墓が現実世界には存在せず、Webサーバー上にのみ存在しているお墓のことだ。通常、お墓には遺体や遺骨を納めるのがオーソドックスだが、単独型のネット墓の場合、必然的に遺骨は納めないことになる。遺骨は散骨にするが、参る対象としてお墓が欲しいという人に向けてのサービス。「そんな人存在すんのかよ」とツッコみたい人もいるだろうが、現にこういうものがあるのだから仕方がない。
単独型ネット墓については、実物のお墓の代替物としてWeb上にお墓を建立しようとする試みであり、日本の墓文化史上、前代未聞のスタイルであると言える。
Webサーバー上に墓があると何が困るのか?
文化史的に最前線を走っている単独型ネット墓であるが、「じゃあ実物のお墓がないと何がダメなの?」と言われると、うーん……。悩んでしまう。「参る人がよければいいじゃない」と言ってしまいたい気持ちを抑えて、僧侶として一言申させてもらうならば、「Webサーバー上のお墓は開眼(かいげん)の儀法をどのように行えばいいの?」ということだ。テクニカルな問題でごめんなさい。
墓石というのはただの石ではなく、石材に開眼(お性根入れ、魂入れとも言う)という儀法を通じて魂が注入されてはじめて墓石となるのである。実際に石材メーカーの人に尋ねてみると、墓石を購入される方で開眼法要を行わない人はほとんどいないとのことだった。従来ならば、僧侶は開眼法要とよばれる一連の儀法を墓石の前で行うのだが、ネットにお墓がある場合、僧侶は何に魂を入れたらいいのだろうか。
ネット墓を拝むことになるパソコンに魂を入れたらいいのだろうか。それとも、ネット墓が存在するWebサーバーに魂を入れたらいいのだろうか。もしWebサーバーがレンタルだった場合はサーバーレンタル会社まで僧侶は赴くことになるのだろうか。というか、そもそも借りてるサーバーのサービスが終了しちゃった場合はどうなるのだろうか。お墓は、弔われた人は、一体どこに行ってしまうのだろうか……。これには弔う側も不安が絶えないことだろう。
お墓参り体験をネット上で味わえるのか?
もう一つ付言しておきたいのは、ネット墓では「お墓参り」という体験がなくなってしまうということだ。皆さん、お墓参りの経験は少なくとも1回はあることだろう。そのときのことを思い出してほしい。お墓の前に立ち、静かに手を合わせたとき、何か感じるものはなかっただろうか。たとえば、それが先祖代々のお墓であった場合、目の前には自分の先祖が眠っているのだ。月並みな表現だが、この先祖たちがいて自分がいるというまぎれもない事実を体感することができる。
これがネット上で味わえるかというと、私は難しいのではないかと思う。というのも、現実世界のお墓参りは非日常体験であるのに対し、ネット上のお墓参りは日常と地続きの体験となってしまうからだ。たしかにお墓参りは面倒な部分がある。いちいち、遠くのお墓に赴かないといけないし、お花やお供え物を買わないといけないし、掃除道具もそろえて持って行かないといけない。しかし、その面倒があるからこそ、そこに非日常体験があるのもたしかなことなのだ。
それに対し、ネット上の墓参りとなると、お家のリビングで行うことになるのだろうか。日常生活の隙間時間でお参りできるのはたしかに便利にも思える。しかし、今まで日本人が変わらず行ってきた「お墓参り」という体験が失われてしまうのは少し寂しい気もする。
とはいっても、現在はVR技術が発達してきているのも見過ごせない。お墓参り体験も、お家でVRゴーグルを装着し、あたかも自分が墓地に立っていて、目の前にお墓があって……ということが実現されたころには、ネットでのお墓参りも非日常体験となる可能性はある。
仏教の教えはシンプルに言うと「何が正しいのか自分で考えろ」なので……
ここまで、ネット墓がアリなのかナシなのかということについて、四苦八苦しながら文章を書いてきたわけだが、アリかナシかはぶっちゃけた話、あなた次第だと言える。仏教の教えはシンプルに言うと「何が正しいのか自分で考えろ」なのだ。究極的にはあなたが何を「お墓」だと思うかにかかっているのだ。そこに収められる遺骨がお墓なのか、それとも墓石なのか、はたまた魂なのか。そもそもお墓なんてただのハリボテにすぎないのか。それは個人の信仰の問題であるといえるだろう。
しかし、先に指摘したように、お墓とは残される者の心のよりどころとなることも多く、単なる自分本位のモニュメントだけでないというのもたしかだ。また、日本の長きに渡る墓文化のなかで、培われてきた風習、大切にされてきた体験があったのも事実だと言える。
こうした事実をあなたがどう受け止めるのか、しつこくて申し訳ないが、それもあなた次第だ。「何が正しいのか自分で考える」というのは仏教の考え方であるが、便利さに安易に身を委ねるのではなく、一度立ち止まって、今存在するもののありがたさを考えること。テクノロジーの進化とともに新しいライフスタイルに踏み出そうとする私たち現代人が忘れてはいけないのは、こうしたスタンスだと私は思う。
そして、ふだん見慣れている四角い石のお墓は、今日、さまざまな問題を抱えているのもたしか。「子供に墓守の面倒を背負わせたくない」「お墓を建てる土地や墓石が高額すぎて買えない」といった根深い事情から、お墓を建立しない人も少なくはない。
だとしたら、パソコンやスマホからいつでもどこでもアクセスできて、残された者が末代に渡って墓守しなくてもよいネット墓は、新しい選択肢になり得るのかもしれない。
Photo By Thinkstock / Getty Images
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